赤い星





「またそうやって君は、人を不幸にする」

秋野正臣は自分の3歩斜め前を、 ご機嫌そうに口笛を鳴らしながら歩いている黒木夏目に 向かってこごしい声をかけた。



空にはひたすらに美しい円を描いたオレンジの月と、 それを囲む小さな星がらんらんと輝いていて、 本当は、こんな日には楽しい話でもしながらゆっくりと 歩いて帰るべきなのだ。



しかし飲み屋から出てから、いや、正確には 飲み屋の席ですでに、秋野は怒りで爆発しそうなのを 抑えるのにただただ懸命だった。黒木はこういう人間で、 恐らくはやることなすこと悪気がないのであろうことも 頭では分かっている、しかし、どうしても、感情はそれを許さない。

「僕が、誰かを不幸にしたのかい?」

黒木はキャラメル色の長いコートを翻し振り返ると、 その整った顔をほんの少しゆがめて、皮肉ったような笑顔を見せる。
瞬間、抑えていた 何かが爆発し、眉をつり上げて黒木をねめつけた。

「そんな事にも気づかないのか、君は!」

言ってしまってから、はっとする。 こういう感情から衝動的に発した言葉は 人を傷つける可能性が大いにある。 おそるおそる握っていた拳をゆるめ、 黒木の反応を見たが、しかし 黒木はただ無感情さを全身にあらわして、 少しだけ右目をすがめて、ふんと鼻を鳴らして笑う。



「さっきの飲み屋の、隣席の人の事を言ってるのかい」



ようやって、秋野は押し黙った。少なくとも、彼は 一応は心当たりはあるらしい。それを知り ほんの少しだけ安堵をする。もしこれで、 何のことか分からないなどと言われた 場合には、今度こそ本当に感情が崩壊していただろうから。

いや恐らく、彼にとっては先程の事なんてなんでもないのだ。 3歩歩けば忘れてしまうような、そんなつまらない 出来事なのだろう。 しかし秋野にはそんなささいな事として認識することは 不可能だった。とにもかくにも、人を不幸にさせるのがーそれが 一瞬であれ永遠であれー許せないのだ。



「そうだよ。さっきの人の事だよ」

秋野は先程の風景を思い出す。







サラリーマン2人が顔を真っ赤にして、楽しそうに話をしている。



『古本屋で買った100円の古い汚い本を、別の古本屋で 売ったら150円で買い取ってくれた。50円の得をした』



というような、そんなささいな話で盛り上がっていたのだ。 秋野はそれを隣で聞いて、ついつい頬が緩んだ。
たった50円の得をこんなに楽しそうに話している彼にも、 またそんな話を自分の事の様に喜んで聞いている 、恐らく上司と思える男にも、 とてもほほえましい気持ちを持てたのだ。 しかし、それを黒木はいっぺんに打ち砕いた。



「それは、誰の、なんというタイトルの本ですか」



秋野はギョっとした。
黒木は完全に初対面のサラリーマン2人の間にずかずかと 入るやいなや、そんなぶしつけな質問をしたのだ。 サラリーマンも、シラフならばこんな不審な男を 無視しただろうが、酔っていたためか機嫌よく答える。

「おう。江戸島安穂の『床下の住人』って本だ」

「初版。2万ですね」

黒木はたんたんと、しゃべり掛けるのではなく ひとりごち、納得するように言った。 サラリーマンたちはきょとんとして黒木を見つめる。

「え?」

「江戸島は世間的には有名ではありませんが、 推理小説マニアの中では一部熱狂的なファンを持つ作者です。 再版は何度か出ていますが、初版は驚くほど数が少ない。オークションなどに出せば2万は 下りません」

「な、なんで初版だと分かる?買ったのは100円、売っても150円だったんだぞ!?」

とうとう気のいいサラリーマンは、 声を荒くして怒り始めた。 それはそうだ、自分の小さな幸せをまったくの赤の他人に、 唐突に踏みにじられたのだから。 しかし黒木は無表情のまま、淡々と続ける。

「それは、『その汚い古い本が売れた』からです。そんな汚い古い小説なんて、 買い取ってもらえないか、買い取ってもらえてもせいぜい10円です。 それが150円で売れた。つまり店員はこれが価値のある本だと知っていた」



ここで、黒木を止めれば良かったのだ。ここで、まあまあと言って、 すみません、と謝って彼を引き戻せばよかったのだ。 しかし秋野がそうする前に、黒木は とうとう決定的な言葉を投げつけた。



「あなた騙されたんですよ」



それで、とうとうサラリーマンは沸騰したポットのごとく 湯気を立て上げて怒り出した。 お前一体何様なんだと、赤の他人のくせに つまらない事教えやがってと。 そんなこと、知らなければ良い気で いられたのに、なぜそんな事を俺に言ったのだと。 俺をおとしめて何が楽しいのかと。

しかし、黒木は対照的に、非常に 無感情だった。いやもう無関心というレヴェルでも良かった。 秋野はまずいとは思ったが、やはり彼を止めることはできなかった。

「別に楽しくありませんし、あなたの様な 人間がどうなろうと僕は興味がない。 興味があるのは、100円の汚い本がなぜ150円で 売れたのかという謎。そしてその回答、それだけです」

これは完全に、 サラリーマンを激怒させるのにうってつけのセリフ だった。彼が喜びから怒りへと転落 したことを興味がないの一言で一掃したのだ。 そうさせた張本人である、黒木が。





その後のことはよく覚えていない。 とにかくつかみかかろうとするサラリーマンを 秋野や店員が懸命に止めた。 黒木はその間、怒るでも泣くでもなく… やはりどうしても、淡々と突っ立っているだけだった。





「ああいうのはいけないよ、黒木くん」

秋野は、はあと嘆息しながら言った。 思い返せば思い返すほど、 この黒木という男はどうしようもないのではないか、 こんな注意は無効なのではないかと、 そんな気持ちでいっぱいになってくる。

「人を不幸にしちゃいけないよ。不幸とまで言わなくても… 嫌な思いさせちゃいけないよ」

「まるで幼稚園の先生だ」

黒木はくくっとのどを鳴らして嫌な笑い方をした。 そうして真っ黒の瞳に奥深い色をのぞかせて、 秋野を凝視する。



「じゃあ君。今日から肉を食べるのやめなさい。 動物愛護団体の人が悲しむからね。
車も乗るのはやめなさい。家族を交通事故で亡くした 被害者団体が嫌な思いをするかもしれない。
それとも、息をするのをやめたらどうだい? 二酸化炭素が増えて地球温暖化防止に躍起になってる 人たちが嫌がるよ」



そう言ってげらげらと声を上げて笑い出す。
秋野は唇をかみ締めた。 黒木は何も分かっていない。
頭が良くて口が立つけれど、 本当に大切な事を何も分かっていない。 いや、分かろうとしていないのだ。分かってしまうと 自分が傷つく恐れがあると、気づいているのだ。 だから何事にも無関心であり、 何事にも注意や留意をしない。

しかし、そんな黒木を見ていると、怒りは 奥底に沈み、ただ静かな悲しみだけが訪れた。 ひょっとして本当に不幸なのは、 恐らくは、黒木本人なのかもしれない。



「人を不幸にすると自分も不幸になるんだ」



秋野は、そうつぶやくと星空を見上げた。 黒木の顔を見る気にはならなかった。見てはいけない ような気がした。 黒木の表情によっては、黒木を 傷つけたことを後悔して自分が傷つく可能性があったからだ。

(いちばんひどいのは自分かもしれない)

秋野はただ、赤く光っている小さな星を凝視した。 願わくは、今、黒木が いつものように無関心で無感情な、 そんな表情でいればいいのにと、そんな願をかけた。





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