穴だらけの完璧





篠崎京子は「完璧」という二文字に猛烈に 固執した生活を送っていた。

いや、生活というよりもそれが人生であり、 彼女の全てだった。
完璧であること、そして完璧であるがゆえに 人からほめられ、尊敬され、そして 時には嫉妬され、ねたまれたとしても それが彼女の幸せでもあり栄光でもあった。
完璧ではない自分など想像もできず、 また存在することも許せなかった。 だから彼女は完璧であるがために、 血の滲む様な努力を続けていた。
しかし 完璧でいようとするためのその努力は つらいものではなく、 彼女の幸せへの布石であったがため、 くじけるとか悩むとか、 そう言った感情がわくことさえも、なかった。

今までは。



「篠崎、ノート見せて」
隣の席から無遠慮にかかった声に、 京子は垂れていた長い黒髪を耳にかきあげ、 ややいぶかしげに声の主の方を 見やった。
つい先日高校も3年に上がり、 クラスも新しくなったばかりで、 そんなに親しく声をかけられるような 友達はいないはずだった、いや、 京子はその外面・内面ともにおける完璧さゆえに、 頼りにされたり、おこぼれをもらおうと近づいてくる 人間はいたものの、 「友達」などど呼べる存在はいなかった。

「ノート。さっきの。数学の」

しかしその男は、さも なれなれしくそう言い放った。 京子は彼を頭から足先までじろりと 見た。

明るく染められてワックスで適当に セットされた髪の毛。顔立ちは 整っているものの、 やけに人を見下したような、小賢しい狐のような 目をして、口元はなぜだかにやにや半笑いをしている。 カッターシャツは第2ボタンまで外して、 すそもだらしなくズボンから出していた。 上履きもかかとをふみつけてぺちゃんこになっている。
そういえば、こんな人間が同じクラスにいた気がする。 名前は確か、浅賀…英介、だったろうか。

(最低)

京子は知らず、目を細めて軽蔑を表した。
こういう人間はとにかく嫌いだった。 だらしないのは勿論のこと、また、 だらしないくせに京子と 同じ進学クラスにいることが許せない。
恐らくこの男は、努力を怠るくせに、要領がよく世渡り上手なのだろう。 今までも勉学といえば適当に行い、 努力した人間のノートを借りるなり知恵を 借りるなりしてうまくやってきたに違いない。

もちろん、心の中ではそっけなく断って やりたいとは思っていた。
しかし京子は内面も完璧である人間で なくてはならなかった。
頼まれたら笑顔で引き受ける。それが モットーだった。

「いいよ」

京子は慣れた作り笑顔でそう言うと、 机の上のノートを手に取り、 英介の方に差し出した。
しかし彼は、くっとのどを鳴らして いやな笑い方をすると、手のひらをひらひらと顔の前で 左右させた。



「違うって。そっちじゃねーやつ」



瞬間、京子はぎょっとして英介の目を凝視した。
何を言っているのか、ではなく、 なぜそれを知っているのか、という 恐怖で身が固まる。

「そっちそっち。あんたが本気で 書いてるやつの方」

英介は京子の机の上にある、 もう1冊のノートを指差した。 先程の小奇麗なノートとは違って、 表紙が擦り切れた使い込まれたノートだ。

京子は愕然としてその男の 狡猾そうな目を見続けた。

どうして知っているのだろう。どうして。どうして。 そればかりが頭の中でぐるぐると かけ回る。

京子は毎回の授業中、 常に2冊のノートを取り続けていた。
1冊は「人に貸すため」のノートで、 小奇麗にまとめて書いてある、が、 穴場や人が見落としがちな所については省いて書いてある。 それは勿論、 このノートを借りた人間がテストで自分よりも いい点を取らないようにするためだ。
そうしてもう1冊は、自分のためだけのノート。 教師が言ったどんなささいな事さえメモして ある完璧なノートだ。

「そっち貸して。良い点取れる方」

英介はなおもニヤニヤと笑いながら 追い討ちをかけるようにそう言った。 京子は頭の中で何かが切れるように 感じて、彼をぎろりとねめつけた。

「どうして知ってるのよ」

「あ、篠崎サンがきれた。めずらしいねぇ」

ちゃかすようにけたけたと笑う。 京子はひざの上でこぶしを握り締めた。

「質問に答えて」

「はあ?  見てたからに決まってんだろ」

「見てた?」

京子は理解できずに眉根を寄せた。 なぜ彼は、どういう理由で、自分を見ていたのだろうか。

「興味あるから」

そんな京子の疑問をまるで察したかのように、 英介はすらりとそんな事を言った。

「興味あるから見てんの。おかしい?」

「…おかしい」

京子は反射的にそう答えた。
いったい、彼のような、自分とは 住む世界を違えている様な人間が、 どうして自分に興味を抱いているのだろうか? そう思うと、思考は暗い方向へと向かっていく。
もしやこの男は自分のこのずる賢く嫌味な 本心を見抜き、そしてそれをネタに何らかの 嫌がらせや見返りを求めるーつまり、 脅すつもりではなかろうか。
青ざめ、身を固める京子を見て、 英介はふんっと鼻で笑う。

「勘違いしてんだろ?」

そうしてにやにやと目を細める。

「興味あるって言ったら、 好きだからに決まってんだろ。ま、あんた恋愛とか 興味なさそうだから、 分かんないだろうけどさあ」

「好き?」

京子は疑問系で問い返すと、大きな黒目がちの瞳をぱちぱちと 瞬かせた。
別に異性に好きと言われることに 慣れていない訳ではない。 むしろ 頭もよく、また容姿も人並み以上に整った 京子は昔から異性に好意を示されることは 随分とあった。
しかし、好きだと言われることを疑問に 思う事がなかった。なぜなら 自分が非常に魅力的である人間だと、 自分で分かっていたからだ。こんな 完璧な人間は好かれ憧れられて当たり 前なのである。だから、好きだと言われるたびに、 自分の価値を実感できて、そういう意味で京子は 嬉しかった。

しかし、英介の今言った「好き」は まったくもって理解ができない。 なぜか、が分からないのだ。

それは、英介がこのように、だらしのなく要領の良い、 いかにも自分とは正反対の性格であり、 そしてそう言った性格の人間は、自分のような「勤勉」 な人間を蔑視している事を知っているからだ。 しかも、英介は自分の本性を知っている。 テストで自分だけが良い成績を取れるようにと、 2冊のノートを用意するような小賢しい人間であることを、 知っている。それなのに「好き」とはどういう意味だろうか。 筋が通らない。

「あんたでもそういう顔すんだな」
レアだねえ。と英介は 上機嫌で笑っている。 なんだか英介が、得たいの知れない、 理解のしようがない不気味なものに思えて、 京子は顔をこわばらせる。

「どうして」

「はい?」

「どうして好きなの」

「へ?どうしてって…、ちょっ、お前っ…」

英介は我慢ならない、と言ったふうにひざをばんばんと叩いて 笑い出す。

「どうして、だって?俺、そんなん初めて言われたわ」

何かおかしい事を言っただろうか。京子はますます眉根を寄せた。 理由があるに決まっている。誰かを好きだというのなら、 必ずどこどこがこうだから好きだと、明確な 理由があるはずだからである。 そうでないと愛情なんて重たい感情を 他人に向けられる訳がないからだ。
考え込む京子をよそに、英介はげらげらと笑い続けている。

「ま、あえていえば、自分と似てるってとこかもなあ」

「は?」

京子は意味が分からないといったよりも、 怒りに近い感情を覚えて荒げた声を出した。
誰が、誰と似ているだって?私と、このだらしのない男が 似ているだなんて、そんなのはありえないし許せない。 しかし英介はそんな京子の反応も予想の範囲内だったようで、 くっくと肩を揺らして笑っている。

「委員会」

そうして、クイズのヒントを出すように、英介は人差し指を京子の顔の前で 立てる。

「代議委員会。昨年、一緒だったろ」
「…覚えてない」

京子は小首をかしげた。
確かに昨年は代議委員に入っていた。 代議委員というのはクラスの代表として 学校に意見を伝えるという、目立つわりにはさして 仕事内容が大変ではないという、穴場の委員会だ。 しかし、そこに英介がいたかどうか、といった事は 覚えていなかった。なにしろ、委員会など 出席してたまに発言すればいいだけで、 京子はいつも委員会の時間は、一番後ろの席に座り、大半議題を真剣に 考えるふりをして 机の下でノートを広げて勉強に勤しんでいた。

「すっごいしょーもなさそーな顔してたろ」

「…」

京子は黙りこくった。確かに、委員会なんて 時間の無駄としか思ってなかった。しかし、 そんな態度はとらないように心がけていたはずなのに、 なぜばれてしまったのだろうか。

「だから俺と似てると思った。俺も、しょーもねーって思ってたから」
「そんなの、大体の人が思っているわ」

京子はすかさず反論した。
委員会なんて部活や授業と違って、面白いわけがない。 誰だってつまらないと思っているに決まっている。 いたって自分の感情は特別ではなく普遍的であった。 だから似ているなんて言葉は相応しくない。

しかし英介は、すうっと立てていた人差し指を下ろすと、 唇の右端を持ち上げてにやりとする。

「しょーもないと思ってたのは、委員会じゃない。学校自体だ」

「…え?」

「っていうか、生活自体?」

まるでうまいギャグでも言ったみたいにそう言うと、 またしてもげらげらと笑い出す。
しかし京子は冷たい水を頭からかけられたように 血の気が引いて、心臓がどきどきとした。 今まで隠してごまかしていたものを全て暴かれた気がして、 ぞっとする。

学校が楽しくない?生活が楽しくない?
そんなはずはない。なぜなら自分は 充実した人生を送っている。 努力して、努力して、他の人間を蹴落として、 そうして羨望や憧憬を浴びながら、 完璧な人間として生きている。
これが楽しくなくて、幸せではなくて、 いったいなんなんだろうと思う。
しかしそこで逆に、じゃあ幸せとはなんだと 聞かれたら、答えにつまるであろう自分がいた。 一体なにが幸せなのだろう、何が楽しいのだろう。 人から憧れられることが幸せなのだろうか?
じゃあ、幸せだと言っている人はみんな人から憧れられている完璧な 人間なのだろうか?もちろん、そうではない 事ぐらい分かっている。

つまり自分は完璧であろうと必死になり、 幸せの意味や、ひいては、生きる意味といったものを 真剣に考えることもなく、「ただ生きている」だけになっているのだ。

京子は自分の机に目を落とした。小奇麗なノートと、擦り切れたノート。 親切のふりをして、しかしその相手を蹴落とそうとしている。 そんな生き方をしている人間の幸せとは、いったいなんなのだろうか。

「落ち込んじゃった?」

むっつりと口を閉ざして下を向いている京子に、英介は 今までになく静かな声を出した。

「ま、俺も一緒なんだし、いいじゃん」
「一緒じゃない」

京子はこわばった顔つきで英介を見た。
一緒なんかではない。彼のように、 つまらないからと言って好き勝手に、 だらしなくいること…つまり、 つまらないことに対してつまらないという 自然な態度をとることさえもできないのだ。

「いやあ、一緒だろ」

しかし英介はにっこりと微笑んだ。
それは今までのように人を小ばかにした風でもなく、 皮肉った風でもなく、 何かを喜んでいるような、自然な笑顔というべきだった。 京子は困ったように眉根を寄せて英介を見つめる。

「つまらないのに、解決策が見えてないとこが、一緒だろ」

「…」

確かにそういう意味では同じかもしれない。 京子は完璧でいることでつまらない日常を ごまかそうとし、また、 英介はだらしなくいることで、つまらない日常をごまかしているのかも 知れない。手段は違えど、結果的には 同じ事を思い同じ事をしている。
それは確かに「似ている」と表現するのに相応しいのかも 知れなかった。

「でも、俺、解決策見えたかも」

英介はにこにことしながら両手を頭の後ろで組むと、 ぎしぎしと椅子をきしませて反り返る。

「あんたと一緒のクラスになったから」

なんてな、と白い歯を見せて柔らかく笑う。
京子はそれをただただ目をぱちくりとさせて見ていたが、 心の中に確かに暖かいものが流れ出すのを、感じていた。





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