空は見ていた





いかにも優しそうで、美しい女性がこちらを見て微笑んでいる。

白いローブのような服を着て、柔らかそうな黒い髪の毛は、胸の下まで垂らしてある。 背景には何もない。淡いクリーム色が中心から外に向けて グラデーションで塗られているだけだ。

これは、この絵を描いた人間が、 人物画は非常に得意だが それ以外がどうやら不得意であるらしい、 といった個性を顕著に表しているように思える。

しかしその全体的な美しさは、世俗的や現代的からかけ離れた、 言ってしまえば幻想的なものさえ感じさせた。



(それにしても…)
美術準備室のはじっこに置かれた そのキャンバスを、西広亮一はじいっと見つめていた。
(モデルは誰なんだ?)

いつも、あいつはこういった幻想的な 美しい女性を描く。それは勿論髪型や顔が違えども、 しかし、全体的な雰囲気は同じなのである。 そこから西広は、彼がとある一定の人物を モデルにして描いているのではないか、と推定していた。

ガタンッ。

すると背後で物音がした。
振り返ると、ドアのそばには三鷹洋平、すなわちこの絵を描いた主がいた。 三鷹は幽霊にでも遭遇したような、 仰天した顔をして西広を見ている。
「なんだ?」
美術部はもう全員帰ったものだと思っていた。 窓の外の景色もすっかり薄暗い。 すると三鷹はぶるぶると首を振って、まるで悪いことを して、しかられている子供のように、縮こまる。

「あの、わす、わすれ、もの…っ」

そして今にも泣きそうな顔でそう言った。
別段、彼のこういった態度は珍しいものではなく慣れたものだ。
今年この高校に入り、そして美術部に入ってから、彼はたいがいこんな感じである。 なぜだか常にびくびくしていて、遠慮がちで、あまり話をしない。
部活中もはじっこの方にキャンバスを立てて、 誰と話すでもなくひとりでもくもくと絵を描いている。
ただ、部活を一度もサボったこともなければ、 後片付けも掃除当番もきちんとこなすし、 悪い奴ではないことは確かだった。

容姿については、体の全体の色素が薄い感じで、 肌は白く、髪の毛は薄茶色で目は不思議なトビ色をしていた。 くわえて非常な細身で、ぱっと見女性に見えないこともない。

西広は彼とは正反対で、 いかにも日本男児らしい黒い短めの髪の毛に、切れ長の一重。 ただ、成長期には身長ばかりが伸びて、やや細い方だったが、 三鷹に比べればいかにも平均的な高校1年生、と言った感じだった。

「忘れ物?」
「ふ、ふ、ふで…」
「筆?」

西広はふいと、先程のキャンバスの隣にある机を見やった。
確かにそこには使い込まれた筆が1本、所在無さげに置かれてあった。
「これか」
そう言って、それを拾い上げると三鷹の方に向かって歩み寄る。 三鷹はなぜだかびくびくと、まるで殴られるのを怖がっているような、 そんな感じで恐慌している。
(へんなやつ)
西広は半分あきれたような顔をして、その筆を手渡してやる。
「ほら。大事な筆だろ」
そう言うと、三鷹はまた泣きそうな顔をした。 と言っても、それが怖いとか悲しいとか言った感情からでなく、 嬉しくて泣きそうなのだと、西広には分かった。
「うん、あ、ありがと……」
そうして、とてつもなく大切なもののように、その筆を両手で 握り締める。今にもほおずりぐらいするんじゃないかと、 西広は興味しんしんでその姿を見ていたが、 さすがにそこまではしないらしい。

「あの、じゃ、じゃあ…」
そして、雲に隠れるようにして去ろうとする 三鷹の背中を見て、西広は反射的にそのシャツのそでをぐい、とつかんだ。

「ひえええッ」

三鷹は死にそうな声をあげて、がたがた震えながら肩越しに西広を見る。 俺は幽霊か悪魔かよ、と思いながらに西広は口を開く。

「あれ、誰?」

そう言って、例のキャンバスを指差す。 もちろんそこには、 優しそうで美しい女性がいて。こちらを見てふんわりと微笑んでいる。
すると三鷹はぎょっとしたようにトビ色の目をめいっぱいに 見開いて、西広を凝視する。
「モデル、いるんだろ?」
言うと、三鷹はぶるんぶるんと、もげてしまうのではないかと 危惧するぐらいに首を左右に振った。それが余りにも わかりやすすぎて、西広は内心噴出しそうになる。
確信した。これはやはり、誰かモデルがいる。

だいたい人間を空想で描こうとするのは非常に 難しい。また、空想で描いたとしたならば、 毎回同じ雰囲気を出すのは難しく、 また、描き手にとって同じものばかり描くのは つまらないはずだ。

しかし三鷹は意識的か無意識的かは知らないが、 同じものを描いている。これは、特定の人物が 根底にあり、かつ、その人物に対して なんらかの執着をもっているということになる。
「誰だよ、教えろよ」
にやにや笑いながらにじりよると、三鷹は真っ青な顔をして 後退する。
「し、し、しら、知らない」
「恥ずかしがる事ないだろ?」
「ほ、ほんとにっっ、知らない!!」

しかし三鷹はほとんど絶叫するようにそう言うと、 突然床の上にぺたりと座り込み、うつむいた。 まさかとは思ったが、その上下に揺れる肩と、 ずるずると鼻をすする音を聞いて、どうやら泣いてしまったらしい、と 西広は確認する。

(泣かすつもり、なかったんだけどなあ…)
というか、まさかこんなことで泣くとは思わなかった。 三鷹は色々な意味でとにかく意味が分からず、予想外な 人間らしい。西広は、はあ、とわざとらしく大きなため息をついた。
「いいよ、もう。悪かった」
西広はなるだけ優しい声を出すと、そう言った。 三鷹はゆるゆると伏せていた顔を上げる。 鼻の頭が真っ赤になって、大きな瞳にうるうると涙を ためている。なんだか必要以上に脆弱なチワワみたいだな、と西広は思う。

三鷹はしばらくそんな情けない顔で西広をじいっと見ていたが、 ようやく落ち着いたらしく、よろよろと立ち上がった。
「…あ、あの…西広くん、は?」
そしておどおどとした声音でそう言う。
聞かれたことの 意味が分からず西広が眉根を寄せると、 それを怒られたととったのか、三鷹はびくんと肩を揺らす。
「あ、あの、ごめん、なさ…!」
「なに?どういう意味?」
瞳をまっすぐのぞいてそう聞くと、三鷹は一瞬あっけにとられたような 顔をして、それからすぐ自分の説明不足だと気づいたのか、 真っ赤になった。

「あ…西広君は、モデル…あるの?」

そう聞かれ、西広は目をぱちくりとさせ、それからぷっと吹き出した。
「お前、俺の絵ちゃんと見たことあるの?」
しかしそう言うと、三鷹は今までのおどおどっぷりからは 想像できないような強いまなざしを見せると、前のめりになった。

「ある!…に決まってる。西広くんの絵は、 すごい、と思う。その…モノを正確にとらえてるとか、 は、勿論なんだけど…雰囲気とか、存在感が すごくあって。だから、西広くんの絵を見ていると、 僕はそこにはいないし、そこには行った事ないけれど、 その場所にいるような、気に…なる…」

三鷹はしゃべりすぎたと思ったのか、 最後の方は顔を赤くして、声も小さくて聞きづらかったが、 確かにそんな事を言った。
西広は寸時、息がつまった。 まさか三鷹がそこまで自分の絵を真剣に見ていたことも 知らなかったし、そんな感想を抱いているなんて まったく、思ってもみなかった。

「…でも俺、風景画しか描けないから」
西広は人物画が非常に苦手だった。 外枠をとって、色を塗って、影をつける、そういう 作業的なことを繰り返すなら描くことはできるが、 その人物に感情や個性を入れようとすると、 どうしても気に入らないものになってしまう。 だから、西広は風景画や無機質なものしか描かない。 そこには感情や個性はなく、ただ、モノの存在があるだけだからだ。
「だからモデル…っていうか、 描きたい風景を見つけたらデジカメで撮るんだ。 あとは、それを絵に起こすって言うか…描き写すだけ…っていうか、 作業的だろ?」
西広は自嘲的にそう言った。 自分でもこれでいいのかどうかが分からない。 こんな絵の描き方が正しいのかどうか分からない。 三鷹のように、心から描きたいものを、きちんと 感情を載せて描くことが、できない。
なぜ絵を描いているのかが、分からない。

しかし三鷹はそれを聞くと、ぶんぶんと首をおおきく振った。
「そんなことないよ!…僕は、西広くんの絵を 作業的だなんて、思ったこと、一度もない…。 西広くんの絵は…空が…しあわせそうだったり、 建物が、さみしそうだったり、する…」
「はあ?」
西広は眉根を寄せたが、 自分の鼓動がどくどくと気持ち悪いぐらいに 早くなっているのを感じた。
全身の血がじわりと胸の方へ集まってくるのを感じる。 鼻の頭がツーンとして、なんだか気が狂いそうになる。

「…西広君の風景画は、感情がたくさん、こもってる、と、思う…」

西広は、うっかり涙腺が緩みそうになるのをこぶしを握り締める事で なんとか阻止した。
そんな風に言われたことはなかった。 うまいとかきれいだとか、そんな聞きなれた個性のない ほめ言葉なら何度だって聞いてきたが、 三鷹のような本当に心に響く言葉は、今日、初めて聞いた。

「…ありがとな。俺もお前の人物画は凄いと思うよ。きっと あんな写実的なのに幻想的な絵は、お前しか描けない」
西広はにっこりと笑顔を向けるとそう言った。 三鷹は驚いたように目を瞬かせていたが、同じように、にっこりと笑顔を返した。
「で、でも、いつも、身近にいる、同じ人、を モデルにしてるから…同じのばっかり、で」
「たまには違うやつもモデルにしてみたら?俺とかさ」
それは勿論冗談で言った。
しかし三鷹はとんでもなく驚いた風に、びくんと飛び上がりそうなほどに 肩を揺らし、さきほどの笑顔とうってかわって、顔面蒼白になる。

「そんなイヤかよ」

西広は苦笑して、さあ帰ろうぜ、と準備室から出た。 三鷹も一緒に帰ると思ったのだが、まだ準備室の入り口で 呆然としたようにひたすら突っ立っている。

(ほんと、へんなやつ)

西広はカバンを肩にかけるとあきれたように身をすくめて、 廊下を歩いたが、とある事に思いついてぴたりと足を止める。

(『いつも身近にいる同じ人』が、モデル…?)

そういえば、三鷹はいつも美術室のはじっこで絵を描いていた。 そこから見渡す視界に入る人間といえば、彼をのぞいてたった5人しかいない 、美術部の誰かだということになる。
そして、さきほどの「冗談」を言った時の、彼の、あまりに 驚いている顔。

(…まさか、な)

西広はぶんぶんとかぶりを振って、 その考えを吹き飛ばすように必要以上に速い足取りで廊下を歩いた。





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