ゲシュタルト崩壊
「あなたは誰ですか」と聞かれた場合に、 なんと答えればいいのでしょう? 例えば相手が本当に、一度も会ったことのない 人間であった場合には「わたしは山田花子です」 といった具合に「名前」を告げる事でしょう。 しかしこの「名前」は残念ながら「あなた」の ごく表面的な一部、つまりはあなたをとある 特定化された1つの個体として認識する、 単なる「記号」でしかありません。 「あなた」は誰なのか、それを述べるためには、 名前以上の個人情報をできるだけたくさん あげていかなければならないのです。 「あなたは誰ですか?」 仲川美貴子は彼女の目をまっすぐ見つめて こう聞いた。彼女は16歳ぐらいの細身の 女の子で、髪の毛はきっちりと肩でそろえられ、 前髪は左右に流してある。見覚えの あるセーラー服を着て、ワンポイントの 白い靴下をはいている。 「あなたは誰ですか?」 もう一度、ゆっくりと聞いてみる。 しかし彼女はただ黙って、美貴子の 瞳をじいっと見つめ返してくる。 (おかしいな。聞こえていないのかな) そう思いながら、もう一度口を開く。 「あなたは、誰ですか?」 やはり答えは返ってこない。 しかし美貴子は1つの現象を確認した。 美貴子がしゃべると、彼女も口を開いて 何かを言っているのだ、しかし、それは、 聞こえない。 (声が小さいのかな?それともカゼ引いて声が出ないのかな?) 声でダメなら、ジェスチャーだ。 美貴子はそのアイデアを思いつくと、顔の横ぐらいの 高さまで右手を上げ、ひらひらと手のひらを振った。 すると彼女も同時と言えるタイミングで 手のひらを振ってくれた。ただし、彼女のは右手ではなく左手 だったが。 これは「同調」という心理現象だ。 相手に親近感や共感を抱いた場合に、 同じポーズや行動をとる事があるという。 (だから、わたしはこの子には嫌われてはいない) 名前を教えてくれないけれど、嫌われてはいない。 「わたし、あなたと仲良くなれると思うの。だから、教えて。 あなたは誰ですか?」 美貴子は少し身を乗り出して言った。 すると相手もやはり同調したように身を乗り出してくれる。 しかし、やはりどうしても、名前を教えてくれない。 「…ま、いいか、名前なんて。どうせ親が勝手につけた記号だもの。 今日からわたしと友達になりましょう」 美貴子はそう思いなおし、手を差し出した。握手を しようと思ったのだ。しかし手は、がつんと何か壁のようなものにあたってしまい、 彼女と触れ合うことが、できない。 「ママ。おねえちゃん、また鏡とお話してる…」 「……ほうっておきなさい」 背後で、妹と母親の声が聞こえたが、美貴子はただ突っ立って、 目の前の自分をじっと見つめていた。 BACK |