顕微鏡の君





「君は顕微鏡座みたいだ」

これが黒木夏目と初めて会った時の いまだに忘れられない第一声だった。

「はい?」

秋野正臣は頭上に大きな?マークをともして、 頓狂な声をあげたが、 目の前に座っている男はただただ落ち着いて、 暑いコーヒーを優雅にすすっている。





時は8月中旬、セミの鳴き声が飛び交い、この喫茶店の窓から見える 町行く人は半そで、ノースリーブ。汗をだらだら流して 忙しそうに歩いている。

しかし何度見ても自分の前に座っている彼は、 冬物と思われるのキャラメル色のコートを着て、 前をがっちりと止めている。それでいて 暑いコーヒーを飲んで汗ひとつかかない。

そんな格好だけでも、周囲の人間の目をひいているのに、 更に輪をかけて注目されてしまう理由は、その容姿だった。
背は恐らくは180ありモデル体系で、 生まれつきと思われる薄茶色のふわりとくせのついた髪の毛に、 日本人とは思えないくっきりとした目鼻立ちをしている。 特に目は、不思議な鳶色をしていて、見ていると 異次元空間に吸い込まれそうになる。

対する秋野は、悲しいほどの童顔で、 こうやってシャツにネクタイといかにも 社会人の格好をしているにかかわらず、 たまに大学生に間違われるほどで、姉や姉の友達からは かわいいかわいいとオモチャにされているのである。 もう、今年で28歳。出版社に入社して6年も経つのに。





「僕は、おうし座ですよ」

随分としてから、やっと秋野は反応した。 しかし黒木はふんっと鼻であしらうように笑うと、 コーヒーをソーサーにことりと置く。

「君の12星座なんて興味ない。ただ、 君は顕微鏡座に似てるって、言ってるだけだよ」

「あ…はぁ……」

秋野はどうすればいいか分からずに、 とりあえずの愛想笑いをした。
興味がないと言われイラッとしたし、 顕微鏡座なんていう、あるのかないのか 分からない星座に似てると言われたところで 何一つうれしくない。

しかし、怒りを露にする事なんて断じてできなかった。
なぜなら、この黒木夏目は、日本全国の本屋の一番目立つところに 常に山積みされる小説を書いているような… 相当な、売れっ子作家だからだ。



(話には聞いていたけど…)



秋野は早速不安に駆られた。黒木夏目はとにもかくにも 変わった人間で、担当編集になったが最後、 振り回されていじりたおされてバカにされて、 最後は気が狂って逃げ出すしかないと言われている。 黒木の担当になった編集は50人を超えるらしい。 短いと1日、長くても3ヶ月ほどしかもたないらしい。



(僕は何日もつんだろう)



熱いコーヒーを一滴の汗も流さずすする黒木を見て、 秋野は小さくため息をついた。





「あの、ところで、黒木せんせ、」

「先生はやめてくれないか」

語尾をばさりと遮って、黒木はきつめに言う。

「君は僕を尊敬しているのか?君は僕に何かを教わったのか?そうでないなら 先生なんて敬称で呼ぶのはふさわしくない」

「え、あ、はあ…」

秋野は困って眉根を寄せた。物書きの方に対しては 先生と呼ぶのが慣習だったからだ。

「あの、では…黒木、さん?」

「くん、でいいよ」

そう言われて、ギョッとする。
年収何億と稼いでいる大物作家を、親しい知り合いでもないくせにクンづけだなんて、 とてもじゃないけどできない。

「それは無理です。だいたい、年上のあなたに…」

「僕は君より年下だよ。2歳は年下じゃないかな」

「えっ」

秋野はびっくりして目をぱちくりさせた。 何をどう見ても黒木のほうが年上に見える。というか、 自分は本当に童顔なので、黒木も自分を年下だと 思い込むはずである。それなのに、なぜ。

「君は1981年生まれの28歳。そうじゃないか?」

「えっ、あ…」



秋野は驚きを通り越して、 少しうすら寒くなった。
なぜならこの男と自分は初対面のはずである。 今日、午後2時に、ここで二人は初めて会ったのだ。 実はまだ自分の名刺すら渡していない。なのにどうして年齢が分かるのだろうか。

「『どうして』って顔をしているね」

黒木はくくくっとのどをならすと非常に愉快そうに 笑い始めた。 秋野はただ黙って、黒木の言葉を待つ。

「別に超能力なんて使っちゃいないさ。 君の手首のそれが証明した」

黒木はそう言うと、秋野の手首に巻かれた 腕時計を指差した。

「2003年のみ発売された、オリエント社KING MASTER限定モデルだね。 そんな高価な時計は 学生時代には買わない。腕時計というのは、だいたいが、 就職して給料がもらえるようになって記念品として 買ったりするものさ。 就職した時、恐らく君は22歳。つまり、2003年に22歳だった君は2009年の現在、 28歳だということさ」

「…その通り、です」

秋野はごくりとツバを飲んだ後、静かな声で答えた。
初めはこの男は単なる変わった人間だと思っていた。 意味の分からなさを恐慌し、見くびっていたと言ってもいい。 だがどうやらそれは大きな間違いらしい。



(この人、頭が良いんだ…)



売れる小説を書いているような 人間なのだから、頭がいいのは当たり前なのだが、 そういった頭の良さではないのだ。 どう言い表せばいいのか分からないが、 恐らく、観察力や洞察力が恐ろしく高いのだ。

「さあて、じゃあ君の名前から教えてくれよ」

「僕は、秋野正臣と言います。今日からあなたの担当編集者、です」

いつのまにか秋野の中の不安は期待や楽しみへと変化していた。 これが自分にないものを持ち備えた人間に抱く憧憬という ものなのだろうかと、そんな風に思い始めた。





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