幼馴染のジレンマ
机の中から 教科書類を取り出し、 鞄に詰め込んでいると 遠慮がちにそばに誰かがよって来た。 いや誰かがという言い方もおかしい。 こうやって足音も小さく、 こちらの都合がいいかどうかを 必要以上に考慮している、 そんな態度を取れるのは彼しかいない。 「どうしたの。祐二くん」 天野千夏はゆっくりと顔を上げて 隣に突っ立っている糸中祐二を見て、 にこりと笑いかける。 祐二はどこか困ったように眉根を 寄せて一寸黙っていたが、 意を決したように口を開く。 「千夏ちゃん、相談があるんだけど…」 「なに?」 千夏はひどく冷静を装って そう返したが、 すっかりと恐怖に似た 感情で心身がこわばった。 これは今までも何度も経験していることで。 幼馴染のこの彼が、 自分に相談することといえば、 いつだってそれしかない。 そしてその相談によって、 自分は何度も深く傷ついて いるけれども、そんな事を 言うつもりもなければ 知られたいとも思わないし、 知られてしまうことがひどく怖い。 夕日が電信柱の影を お化けのように長くしている。 千夏はそれをじいと見つめ、 いったいいつ、祐二が口を 開くのかということを恐れながら、 こつこつと足音を立てて路地を歩く。 「あの、あのさ、年上ってどう思う?」 ようやって、 祐二が口を開いた。 瞬間、この場から逃げ出したくなるのを 懸命にこらえ、千夏はぴたりと足を 止める。 「年上の?おとこのひと?おんなのひと?」 「…おんなのひと」 ああ、やっぱりかと思う。 やっぱりなんだと、思う。 きっとそんな話だとは 思っていたれど、 たった少しの期待さえ、 やはり叶わないものだと知らされて 千夏は地面に沈み込みそうな感覚で ふらふらとする。 「年上のおんなのひと…」 噛み砕くように、 自分に言い聞かせる。 同い年の自分では、 何をどうあがいたってなれない存在。 いや、年上だとかそんな形式的な ことよりもっと重要なことは、 もちろん分かっているけど。 「2歳?3歳?」 「…8歳上、なんだけど」 まるで許しを乞うように、祐二は おどおどと言う。 「24歳なんだ、ふうん」 千夏はため息にもにたように 答えた。8歳上の、大人の女性。 16歳の自分たちから見れば きっとそういった存在は 魅力的で未知にあふれていて、 憧れるものかも知れない。 「先月から家庭教師に来てくれてる人でね。 すっごい美人なんだよ」 祐二はにこにこと幸せそうな 微笑を称えて続けた。 千夏も一緒ににこにこと笑って 聞く、ふりをする。 本当はそんな話は一片たりとも 聞きたくもない、聞きたくない、 そんなのは聞きたくないから言わないで、 笑わないで、幸せそうな顔をしないでと、 言ってしまえたらどれだけ良いだろうと 思う。だけど言えない。 自分はただの幼馴染なのだから。 「じゃあね」 いつのまにか太陽は山の方に隠れ、 青白い夜が迫ってきた。 いつもの曲がり角に着くと、 祐二はひらひらと手を振る。 「話、聞いてくれてありがとう」 「うん」 千夏は心の中の 汚泥がばれないように、 ただせいいっぱいの笑顔を向けて頷いた。 祐二がくるりと背中を向けて、 曲がり角の方へと歩いていく。 「祐二くん、」 千夏は思わず引き止めるように呼びかけた。 祐二はゆっくりと振り返り、 やんわりと微笑む。 その微笑を見ていると、 本当は彼は、 何もかも知っているのではないかという 錯覚を起こさせる。しかし、 実際は知らないし、知らないに決まっている。 「…もし、もしわたしが」 千夏は 腰の辺りで握り締めた拳にぎゅっと力を こめた。自分が何を言おうとしているのか、 そしてその結果どうなるのか、 怖くて小さく震える。 「…わたしが…死ぬのと、 その年上のおんなのひとが死ぬのと、 どっちが悲しい?」 我ながら、なんて陳腐な言い回しだろうか と思う。これではまるで小学生の ような物言いだ。 しかしどうすればうまく伝えられるのか 分からなかった。そんな 事を熟考する余裕さえもなかった。 祐二は一瞬呆気にとられたように 目をぱちくりとさせていたが、 瞬間にっこりと微笑むと 千夏の目を見つめた。 「千夏ちゃんに決まってるよ。 だって、好きな人は今から何人か 出会うかもしれないけれど、 千夏ちゃんは一人しかいないから」 そう言って、本当に柔和な笑顔で笑った。 千夏も一緒になって笑った。 それは本当にあまりにもひどい言葉で、 心の中でたくさんの感情が 衝突して ずたずたに切り裂かれていくのを感じた。 そうしててくてくと、 やはり小さな足音で遠のいていく 祐二の背中をいつまでも見つめていた。 もしもわたしが幼馴染なんかじゃなかったら、 「これから出会う好きなひと」に なれたのかもしれないと思って、 ぼろぼろと涙がアスファルトに落ちていく のを、ただ静かに見ていた。 BACK |