|
人間嫌い
黒木がもう、3日も部屋に閉じこもって出てこようとしない。 大好きなカフェオレとモンブランが あるよと、彼が出てくるであろう最大のエサを使っても、 まったく無言で無音で、生きているかどうかも分からない。 部屋はもちろんがっちりとカギがかかっている。 「頼むよ黒木くん、部屋から出てきてよ」 何が一番困るかと言うと、彼が作家であり、 そして自分がその担当編集者であるという事だ。 作家が部屋から出てこず、何もしていないとしたらば 編集者の自分はもちろん仕事が進まず、 出版社からたいへん怒られると言うことである。 せっかく打ち合わせがしやすいという事で 同居しているというのに、これでは何の意味もない。 「黒木くん!」 そうして4日目の朝、しびれを切らしたというよりも彼の 生死がとてつもなく心配になった秋野は、ドアを強行突破してやろうと、 よく刑事ドラマで見るように体当たりすべくドアの 前で構えた、が。その時。 あれほどまでに強固だっだドアがガチャリと開いた。 「ルーデルが死んだよ」 そして唐突に、黒木はひどく顔色を悪くしてうつろな目でそう言った。 「ルーデル…?」 聞きなれない名前に秋野がきょとんとしていると、 黒木はうつむいて床を凝視した。 「ハンス=ウルリッヒ・ルーデルが死んだ」 「え…?…戦車撃破王の…?」 秋野は懸命に聞き覚えのあるその名の人物の 情報を思い浮かべた。 第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人で、 恐ろしいほどの量の戦車を撃破した撃墜王の事だ。 だが、ルーデルは1982年に死去している。今更何を 言っているのだろうか。 「あんなに良い犬だったのに…」 「あ、ああっ!」 しかし黒木の言葉に、ようやって秋野は合点した。 ルーデルとは、お向かいの家で買われている ドーベルマンの事だ。そういえばそう言った名前だったが、 果たしてフルネームがハンス=ウルリッヒ・ルーデルかどうかは 知らない、というか多分そうじゃなく、黒木が勝手に そう呼んでいたに違いない。 「死んだんだね」 そういえば、ここ最近鳴き声が聞こえなかった。 が、ルーデルはもともと賢い犬だったので むやみやたらと吠えたりしないから気づかなかった。 「もしかして…黒木くん、きみ…」 秋野は眉根を寄せた。 まさか黒木が三日も引きこもっていたのは お向かいの犬が死んだことがショックだったのだろうか。 新聞やニュースで殺人事件を見ても 「へえ」としかコメントしない彼が、 犬1匹が死んでこうまでも落ち込んでいる。 普通に考えればおかしい話だが、 黒木に限ってはありえる話だった。 「…あの、しょうがないよ。病気か寿命か わからないけど……でも、ルーデルは幸せだったと思うよ」 秋野はできる限りの慰めの言葉をかけた。 向かいの家はとても裕福で、かつとても優しい老夫婦が 住んでいる。 毎日2人と1匹で散歩に出かけていたようで、その姿はとてもほほえましい ものがあった。 しかし黒木は秋野の発言を聞くや否や、 眉をつりあげて明らかな怒りを醸し出した。 「殺されたんだよ!」 「えっ…」 「僕は毎日ルーデルを見ていた。 彼は寿命なんかで死ぬような年齢でもなければ、 健康状態だってとても良好だった。 死ぬ前日だって、僕が近づくと 嬉しそうに尾っぽを振って、鼻をきらきら湿らせて とても楽しそうにしていた。だから、殺された以外に考えられない」 黒木は猛烈に怒っていた。 こんなにも怒る黒木を見たことがなかった秋野は どうしていいか分からずに、 ただ黙って彼の真っ黒な瞳を見続けた。 「これを見てくれ」 そうして、ただんだ白いハンカチ をゆっくりと開けた。 そこには小さな土のような塊が入っている。 「ルーデルが死んだ日、 家の方に許しをもらって庭に上がらせてもらった。そこで見つけた」 「これは?」 「毒団子だよ。アコニチンが入っている。僕が食べて調べたから 間違いない」 「食べたの!?」 秋野は仰天して大きな声を上げた。 アコニチンがどういった劇物かはよく知らないが、 犬が1匹死ぬような薬なのだから、 人間が食べて平気な訳がない。 ひょっとしたら3日間意識でも失っていたのだろうか。 とにもかくにも、犬1匹にここまでできる 黒木にある種の恐慌を感じた。 「日本の法律はむごい。犬を殺したらどういう罪が科されるか 知っているかい?『器物破損罪』なんだよ。人間を殺せば殺人罪なのに、 殺犬罪なんて罪はないんだ。生物である犬を「器物」と定義しているんだ。 人に反抗せず、忠実で、優しい彼らをモノとして扱っているんだよ。 本当に、この国の法制度には失望するね」 そう言い切ると、黒木はバイクの鍵を手に取るとずかずかと玄関に向かっていく。 「おい、黒木くん。どこへ、」 「犯人を捜す。そして制裁を加えるのさ」 そう言って、まなじりをつりあげて激しい怒りの色を瞳に点した。 ただでさえ端正な顔に凄みがまして、秋野はゾっとした。 それから黒木は2日間ほどしてさっくりと帰ってきた。 何を聞いても答えてくれなかったが、 夕刊の隅っこの方に「犬を連続で殺した犯人を逮捕」という記事が 出ていた。逮捕した直後犯人は、ぶるぶると震えて号泣しながら、 こんな目にあうぐらいなら死んだ方がマシだったとか、もう二度と 悪さはしないできないと、意味の分からない事を叫んで半狂乱になっているらしい。 黒木がいったい犯人に何をして、警察に突き出したのか。 想像するだけも恐ろしかったので、秋野はあえて聞かず、 考えないことにした。 「人間は残酷だ」 黒木はぽつりとそうつぶやくと、家の窓から今はもうルーデルのいない、向かいの家の庭をじっと見つめていた。 彼がいつぞやか自分が嫌いだと、言っていた。しかしこんなに自信満々で横柄な 黒木がまさか自分を嫌いだなんて信じられなかったので、 秋野はそれを聞き流していたが、今回の事件を通じて知った。 黒木は自分が嫌いなのではなく、人間である自分が嫌いなのだ。 BACK |