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シュルレアリスム
(1) 川嶋明弘は、 はあ、と小さなため息をつくと 読んでいた古めかしい本をぽい、とベッドに 投げ出した。しかし数秒後に、あ、これは借りたものだった、と 焦って拾い上げ、 折れたり傷つけたりしていないか一応調べる。 (やっぱり無理だな) そうして、ベッドの上に仰向けに転がると 少し傷んだ天井をじいっと見つめた。 (俺には理解できないみたいだ) 「手術台の上で、こうもり傘とミシンが 出会ったとしたら、美しいと思えるかい?」 ドイツ史の講義の授業開始5分ぐらい前だったろうか。 後ろの方の席でぼうっと窓の外のなんでもない景色を 見つめていると、 そんな言葉が左の耳に飛び込んできた。 よくわからない謎解きの 様な言葉に興味を惹かれ、 明弘はふいと左の方を見た。そこには 男が立っていて、にっこり笑顔を称えて こちらを見ていた。 (俺に言ったのか?) 明弘は驚いて、 目をぱちくりとさせながら その男を再度よく見た。 黒い艶のある髪の毛に、 光の加減のせいか、 少し紫がかっているようにも見える瞳。 何よりも目を引くのは、 その顔のあらゆるパーツとそれのバランスであった。 つまりは、その男はとてつもなく整った顔をしていた。 服装は、ベージュの薄手の長いコートの下に 白いシャツと黒のデニム、 足元はいかにも高級そうな革靴をはいている。 (こんなやついたのか) 明弘は驚いた。 だいたい大学なんてまるで広大な 牧場のように学生がごろごろとしていて、 そんな中で、ひと一人を知らない ぐらいはなんともないことだ。 しかし、ここまでに外見の目立つ男を、 しかも同じ講義に来ていた男を、 知らなかった事が 自分でもただ、不思議だった。 「どう思う?」 男は、ふんわりと笑うと明弘に 問いかける。 明弘は眉根を寄せた。 「なにがだ」 「だから、 『手術台の上で、こうもり傘とミシンが 出会ったとしたら、美しいと思えるか?』 って、こと」 「…なんだそれ」 明弘は首を傾げた。 授業の質問をされているでもなし、 なぞなぞかとも思ったが、 美しいと思うか、と 聞かれているのだから、 これは感想を求められているらしい。 たいがい、ここ、 文学部にはこういう変わった奴というのは 多い。自分の思想や他人の思想を 臆面もなくさらして、まるで かしこぶったように振舞う奴が いくらでもいる。 明弘は、そういう人間を ひどく嫌悪していた。 そしてそんな学部に入っている 自分にも幾分かの嫌悪を抱いている 事は確かだった。 更には、 自分が文学部のドイツ文学科に 進んだのは、 そういうものが好きだという 気持などが毛頭なく、 受験科目に 苦手な理数系が含まれていなかった事と、 マイナーな学部なら倍率が低いだろ言うという、 悲しいほどに文学的でない、 それこそ計算的な考えからだった。 「よく分からない」 明弘は、ぼそっとそれだけを答えた。 普通に気が触れてるような人間に 聞かれたのなら、 黙って無視を決め込んだことだろうが、 この男にはそれをさせない雰囲気と 魅力があった。 「どういう意味なんだ?」 「シュルレアリスム。知らないの?」 男は少し瞳を眇めて笑った。 それは知らないことをバカにしている という風には見えず、 知らないことが当然だと思っているから笑ったように見える。 「ロートレアモン伯爵の『マルドロールの詩』の有名な 一文だよ。デペイズマンの手法の原点」 「デペイズマン?」 「『意外な組み合わせを行う事で、受け手を驚かせ、途方にくれさせる』というもの」 「…ふうん」 明弘は、とりあえずはそう言った相槌を返した。 だからなんなんだ、とは思う。 なぜそんなことを、なぜ俺に聞くのか、と思う。 「僕と君みたいに、ね」 しかし男はそう言うと、 机の上においていた、 少しステレオタイプな茶色い鞄から 1冊の古めかしい本を取り出した。 「感想楽しみにしてるよ」 そう言って、明弘にその本を手渡す。 それには確かに男がさっき言ったタイトルが―「マルドロールの詩」― と、これまた古めかしい印字体で記されていた。 「…だいたい、お前誰だよ」 そうして授業を聞かないつもりなのか 立ち去ろうとする男に、明弘は問いかけた。 「滝口智樹。君と同じ文学部ドイツ学科1年生」 それだけ言い残すと、 男は長いコートを軽く翻して、去っていった。 明弘はぼうっとして、その後姿をただ見ていた。 (2) ところで、明弘には友達というものがひとりもいない。 いや、いないという表現も相応しくなかった。 明弘は友達というものを必要だと思ったこともなければ、 欲しいと思ったこともないし、 ゆえに、作りたいなどとも思わず、作る努力さえしようとも思わない。 別段、家庭に問題があるわけでもなく、 学校でいじめにあった事もなく、何らかのトラウマがある訳でもなかった。 一体、何が自分をそうさせるのかは分からなかったが、 とにもかくにも、自分以外の他人の存在の感情的な つながりの必要性を 感じる事がないので、仕方がなかった。 なので、そんな弘明が家にいるときに何をしているかといえば もっぱらに読書だった。 しかし読書といえども 何らかのジャンルや筆者に偏りやこだわりを持たず、 ただただ、 世の中ではやっている、つまりは本屋で一番目立つ ところに平積みにされてある本を、 何の気なしに読むのが習慣だった。 そんな選択方法で読む本なものだから、 読了後に感想をもつことも特にはなく、 ただ読んだという事実のみに満足するような、 そんな「つまらない人間」だと、 明弘自身もそう思ってはいた。 (感想って言われてもなあ) なので、 今回の滝口とやらの人物からの命題は 少々難儀なものであった。 勿論、感想というもの自体を持つことが 難しかったが、それを更に上回るのは、 この本の難解さだった。 作業的とは言えども、 1ヶ月に5冊ほどの本を読む自分にとって、 読解力というやつは少なからずは備わっているとは 自負していたが、 どうやらそれはこの本の前では役に立たないらしい。 「『ミシンとこうもり傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい。』 」 明弘は、もう3回は読んだその本の、その一句を口にした。 (美しいのか?) そうして、自分に問いかける。 頭の中に、手術台を思い浮かべてみる。 と言っても自分には手術の経験がないので、 医療ドラマで見たそれを想像するしかない。 銀色の冷たい色の台があって、 そうだ、頭上に大きな丸い照明があるのだろう。 そうしてそこに、不意にミシンが現れる。 ミシンも自分の家で見かけたことがなかったので、 これは通販番組などで見かけた家庭用の白いミシンを 想像するしかない。 そして最後に、 こうもり傘が現れるのである。 こうもり傘といえば恐らくは黒色の洋傘の事である。 これで役者は全員そろう。この光景が、果たして美しいのであろうか? (美しいって言うかなんていうか) 明弘は目を閉じて何度も何度も想像を繰り返す。 しかし、思うことはやはりただ1つであった。 (意味がわからない、な) (3) あれから一週間が経った。 弘明はドイツ史の講義10分前に教室に入ると、 前と同じように後ろの方の席に座った。 手には滝口から借りた本を持っている。 結局7日考えたが、やはりどうしても 感想らしい感想は出ない。 いや、滝口は「美しいか」どうかということを 聞きたいのだろうが、自分には美しいか、美しくないか、 以前に意味が分からないという感情のせいで、 そう言った二択でさえも結論付けられなくなっていた。 「返すよ」 そうして、5分前になって悠々とした 足取りでこちらにやってきた滝口に、 弘明は当の本を手渡した。 「どうだった」 滝口は楽しそうに目を細める。 「意味が分からない」 結局、弘明が出した「感想」はそれだった。 ネット書評などを見ていかにもそれらしい 感想でも述べてみせようかと一瞬思ったりもしたが、 なんとなく滝口という人間が計り知れないところを 恐慌し、そのような陳腐な真似はやめることにした。 分からないものは分からない。それ以上でもそれ以下でもない。 「そうだね」 しかし滝口はそう言うと、もう一度にっこりと 微笑んだ。 なんとなく拍子抜けをして、弘明は目をぱちくりと瞬かせる。 「もし君がこれを読んで、まるで全てを 分かった風な口を聞いたりしたら、僕は失望していた」 そうして、その本を案外ぞんざいに鞄にしまいこむ。 「分からなくて当然。なぜならシュルレアリスムは『強度の強い現実』 という意味だからね」 「…そうなのか?」 弘明はやや疑わしげに滝口のその紫がかって(いるように見える) 瞳の奥をのぞきこんだ。弘明とてシュールという 言葉自体は知ってはいるが、 例えばそれは「シュールな笑い」のように、 「常人ではなかなか理解しがたい」とか「現実的ではない」といった ような、そういう意味だと思っていた。 だから、今回の本も理解できないのだと思っていた。 「そうだよ。この世で最も理解しがたいことは、非現実的なことではなく、 強度の現実的なことなんだ」 「強度の現実…」 弘明は滝口の言葉を繰り返すと同時に、 胸の中にすうっと心地よい空気が入ってくる のを感じた。確かに非現実的なもの―例えばまるで夢のようなこと― よりも、強度に現実的なもの―つまりそれは例えば、 今の自分の状況―の方が、明らかに非現実である気がする。 大学に入り、しかし自分のいる位置を つかめず更には嫌悪を抱き、 他人と接触をしないこの現実(もちろん 目前の事実であることなので『強度の現実』である)は、 恐らくは、どの非現実的なことよりも、非現実に思えた。 「興味深い話だった。ありがとう」 弘明は、自然とそう口にしていた。他人に本心から礼を 述べるだなんて一体どれぐらいぶりの事なのだろう。 すると滝口は口角を上げて、やはりふんわりと 笑った。 (4) それから、 弘明が滝口に、いや、滝口と名乗った男に、 会うことは二度とはなかった。 一体あれは本当はどこの誰で、 そしてなぜ、自分にあんな話を持ちかけてきたのかは 今となってはただただ謎で、分からない。 しかしあれは実際にあったことで、 だから強度の現実だった。しかしその内容は まるで非現実的なことだった。 (こういうのが、シュルレアリスム、なんだな) 本当に、こういう意味が正しいかどうかは分からない。 しかし滝口のお陰で、 物事を考えるということ、 そしてそれに結論はいらない、分からなければ 分からなくていい、放置すれば良い、それもまた、 正しいことなのだと教えられた気がした。 (だから俺も俺でいよう) 弘明はそう思って、久々に、空を見上げた。 BACK |