ソラリゼーション
「和成」 聞きなれた声が耳をかすめ、 三島和成は鍵盤を叩く手をすうっと引くと、 肩越しに後方を見やった。そこには壁に背をもたれかけさせ、こちらを見ている兄の幸弘の姿があった。 「三回も呼んだ」 幸弘は少し呆れた風に目を細めて微笑する。和成はそんな表情でさえも直視する事ができずに目をそらした。そらした先は彼の右腕だった。首から三角巾でつられた、分厚いギブスに巻かれたそれは、もう2週間前のケガだとは言え今でも血が生々しく流れているように見えた。 「夢中で、聞こえなかった」 和成は淡々とした声音で答えた。しかしそれがピアノの演奏に夢中だったからかどうかは、自分でも怪しい。なぜなら、自分が今しがた何の曲を弾いていたのか思い出せない。弾きながら頭の中は別の事で埋め尽くされていた。 「だな。発表会は…2週間後か」 「ああ」 いまだ視線をそらしたまま、小さく頷いた。兄は恐らくいつものように微笑しているだろうが、心の中ではどう思っているのか、それを考えると背筋が寒くなって、空気が凍りついたように思えた。 (吐き気がする) こんな風に、普通の兄弟を演じている自分と、そして彼にどうしようもない苛立ちと気持ち悪さを覚えた。 「どうしたんだ」 すると、不意に低い落ち着いた声が響き、和成は知らずびくりと体を奮わせた。前はこうではなかった、この声を聞くと心が浮きだったはずだったのに、今ではまるで悪さを見つけられたような、いや、隠した悪さを探られるような、そんな恐怖で身体がこわばり緊張した。 「雄一おじさん」 ますます視線を下方にそらす和成をよそに、幸弘は今までも幾人かの大人を魅了したであろう、にっこりとした笑顔を雄一に向けた。 雄一もにこりと口角を上げて笑うと、部屋の中に脚を踏み入れた。 「何を話していたんだ?」 「2週間後の発表会の事。和成が僕の分まで頑張ってくれるってさ」 幸弘はそう言ってころころと小さく笑う。和成はむかつく胃の辺りを手で抑えた。そんな事は思ってもいない、考えたくもない、いったい誰がお前なんかのためにピアノを弾くというのだろうか。 「そうか、頑張ろうな。和成」 雄一はそう言って和成の傍に寄ると彼の肩にぽんと手をのせた。瞬間、身体が小さくびくつく。この瞬間に自分のほの暗い思考を見透かされたようで心がざわつく。恐る恐る雄一の顔を見上げると、しかし彼はいつものように穏便な笑顔をしていた、が、どこか哀しい雰囲気を漂わせている。それを感じ取って和成は再び吐き気をもよおした。 (こんなことなら…) 二週間前、兄の幸弘が交通事故にあった。命に別状はなかったものの、右腕をひどくいためつけてしまったらしい。むろん、治れば動く事は動くーしかし。彼の右腕はただ動けばいいだけのものではなかった。音を奏でるため、ピアノを操るために人一倍の繊細な動きを必要とした。医者は、以前のような動きはできないかもしれないと、そんな残酷な宣告を施した。 和成はそれを幸弘の隣で聞いていた。ピアノの先生であり叔父の雄一も、ただ静かにそれを聞いていた。幸弘も、ただ黙ってそれを聞いていた。5歳の頃から13年間も続けてきたピアノを、こんな事で断念するとは思っていなかっただろうが、しかし彼は泣く事もわめく事もせず、ただ、唇を噛んで静かに座っていた。 しかし、そんな兄の姿を見ながら、和成は、上がりそうな口角を抑えるので必死だった、まったくもって、兄の境遇が嬉しくてたまらなかったのだ。 肉親の不幸を喜ぶだなんて、最低な事だと分かりながら、しかしその罪悪感をたやすく押しつぶせるほどに、嬉しいという感情が強かった。 兄はこれでピアノをあきらめざるを得ない、いや、あきらめなくとも、しかし技術はがた落ちせざるを得ない、そうすると、自分は注目を独り占めすることができる。 いつも世間で才能があると褒めちぎられていた兄。世間ならまだ我慢できたが、自分の尊敬し敬愛する叔父が、兄をひいきしている事はどうしても許せなかった。嫉妬と憎悪で狂いそうだった。しかしこれで彼のピアノという才能は潰された。世間も、そして叔父の雄一も、今後は弟である自分に注目するだろう。 そう考えると、嬉しくて、兄の不幸を一緒に悲しむ事などとうていできなかった。 (しかし) しかし、和成が最も求めていたものー叔父の寵愛ーについては、どうやら以前と何ら変わりがなかった。いや、むしろ悲劇の降りかかった兄に対し、叔父の愛情や注目はさらにそちらに向かってしまったようにさえ思った。 和成は、そこでようやく気がついた。叔父の愛情は兄のピアノの才能ではなく、兄そのものに対して注がれていた事に。しょせん、自分のような才能も中途半端で、容姿も内面も秀でていない人間は、そういった期待を持つ事さえ許されなかったということになる。 和成は、自分の部屋に戻ると、電気もつけずに薄暗いまま、しばらく突っ立っていた。そうして思いついたようについと顔を上げると、机の上のペン立てを見たーそこにはペンやはさみにまみれて、小型のカッターナイフが1つ立てられてあった。和成はそれを魅せられたようにひたすら凝視した。 自分にも悲劇がーそれも兄よりもさらにひどい悲劇がー襲い掛かれば、少しでも叔父の愛情を兄から奪えるだろうかと。そうして和成は決意をしたように右のこぶしを握り締めた。 →BACK |